「常に20パーセントの人間が80パーセントの仕事を行う」
これがピーターの法則としてよく知られているルールである。有能な人間はいつでもどこでも忙しく、のこりの人間の無能を補わざるをえないことを端的に表現している法則である。
ソフトウェア開発は、ほとんどの場合プロジェクト・チームで行うが、チーム内には必ず「お荷物」となる人物がいる。のこりの大半は自分の担当する仕事しかしない。そこでお荷物をかついで、なおかつ自分の仕事もこなしてしまう、スーパーな人物が必要となる。多くの場合、プロジェクト・マネージャ(プロジェクトの管理者)はそれを見越してリーダーを任命する。
プロジェクトの末期においては、彼ら有能なリーダーたちの死闘の物語が展開される。お荷物を背負うだけでなく、顧客との難儀な交渉や遅れの正当化、インターフェイス(システムの接合部分)の不整合の調整、誰が犯人かわからないバグの発見と修復、その他もろもろの困難な作業はすべてこれらスーパーな人がこなさなければならない。
彼らは評価されるし、尊敬もされるが、給料はそれほど他の人と変わらない。おそらくプロジェクトの全作業を価値に応じて重み付けし、担当者別に加算してみれば、リーダー(達)の作業比率はおよそ80%になるだろう。
ピーターの法則はソフトウェア業界では紛れもなく真理なのである。そして、報われることがなくても彼らスーパーな人々は今日も茨の道を歩み続ける。なぜなら、他に方法はないことを、彼ら自身が最もよく知っているからだ。
なぜ他に方法がないのだろうか。スーパーな人々がもっと多ければ、仕事の生産性は格段にアップするはずだ。多くの企業がスーパーエンジニアの育成にトライしたが、成功した例はほとんどない。
推測ではあるが、おそらくスーパーな人々のスーパーな能力が発揮されるのは、「追い詰められた時」であるからだろう。スーパーエンジニアがプロジェクトに10人もいれば、安心感から彼らは全力を発揮しないだろう。
有能な人間がいかに少ないかは、「ガルシアへの手紙」において端的に表現されている。(「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」参照のこと)。
ピーターの法則は、このことを怜悧に指摘している。どのように努力しようとも、プロジェクト・チームを有能なメンバで100%うめることはできない。
できるのはただ、自分が、20%に入りチームに役立つか、それとも楽な80%に安住するのかの、選択だけである。
よく知られているピーターの法則の原点は、ピーター博士の著書であるが、これにはもうすこし一般的な内容が書かれている。階層社会(組織などの社長=>部長=>課長=>平社員などの構造を含む)では、すべての人間がいつかは無能レベルに達する、というのがピーター博士の持論である。
これは明らかにある種の真実を含んでいる。たとえばプログラマとして有能な人間が管理職としても有能とは限らない。しかし現在の階層で有能であれば、いずれは昇進して課長になる。課長としてもたまたま有能だったとすると、いずれば部長になる。どこかで自分の能力の限界にいきつくわけだが、それがわかったからといって、めったに降格にはならない。無能なままその地位にとどまるのが通常である。そういうわけで、「なぜこんな人が課長に!?」ということは、よくあることなのである。
開発エンジニアの場合、管理職にならずに、上級専門職を選ぶ人も少なくない。それはこのピーター博士の理論の正しさを知っているからである。プログラマがえらくなり、プログラミングをしなくなったら、すぐに最新技術から遅れてしまう。そんな上司の命令は、有能な部下たちはなかなか素直に従うものではない。ITの世界では、ピーター博士のこの理論は特に深刻なので、対策を講じている企業も多いのである。